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LUCID DREAMING.

君とのことは夢かもしれないな

愛について、Agape。

こんばんわ。

推しが火曜日のパーソナリティを務めたラジポップ2.5が、終わってしまった。毎週ふつーに放送していたのに、終わりは本当に突然だった。最初信じられなくて、「えっ、終わる?シーズン3始まる?」なんて思った人も多いだろう。まあ、わたしである。


最終回を聴きながら、わたしは色んなことを思い出していた。コーナーが増えるたびに推しが楽しそうにしていたこと。忙しい時期でもラジオの日だけは声が聴けて安心したこと。ゲストコラボのたびに新しい顔が見れたこと。途中から聴き始めたわたしでも分かるくらい、だんだん話が上手くなっていったこと。


わたしは、過去の推しのラジオや放送やテレビ番組を、ちゃんと見たことがなかった。「話ヘタだな〜」と思ってたし、実際見た時も面白いとか楽しいとか、そういう感情が湧いたことが一切なかった。今思うと、ヲタク失格なのかもしれない。でも推しのパフォーマンス以外に、なんの興味も示せなかったのだ。

でも、今回は違った。22時に仕事が終わった日も、ラジオのために自宅にガンダして帰った。翌日仕事で5時起きの日も、眠気眼を擦りながら、布団の中で聴いた。感想もたまにしか言わなかったしコメントも打たなかったけど、毎週楽しみだった。週半ばに聴く推しの声が支えだった。


そんな中、わたしはある事に気付いた。気づいたというよりは、感じた。

あれ?わたし、ちゃんと思い出があるぞ?

いやなんのこっちゃと思うかもしれない。そうじゃなくて、わたしは今まで自分には「回数を重ねた思い出」しかないと思っていたのだ。それはわたしの中で、「時間を重ねた思い出」ではなかった。


大袈裟かもしれないけれど、推しとの時間って、歴史なのだ。今まで頭では分かっていたけれど、心のどこかは納得していなかったことが、ストンと腑に落ちた。「歴」という言い方はあまり好きじゃないけれど、やっぱりそれは「≒」で繋げることの出来る、間違いなく愛なのだ。

じゃあわたしは?わたしにとっての愛って、いったい何なんだろう?

現場に行くこと?CDや握手券を積むこと?プレゼントをしたり、フラスタを出すこと?推しの動画を宣伝すること?ツイートにリプライを送ること?それともやっぱり、歴なのだろうか?


現場に行くこと。前に、とある活動者の女の子が「わたしのガチ恋とかいるけど、口だけじゃん。会いに来てくれないのに繋がりたいとか、そういう好意だけぶつけられても困る。好きなら会いに来てよ!って思う」と、わたしに零した。口だけの好きって、意味を成さない。お金とか、時間とか、労力とか。そういうものを推しの見えるところ見えないところに関わらず、重ねていくことが大切なのでは?と、わたしは思う。これを見ている活動者の皆さん〜!どう思いますか?(丸投げ)

積むこと。ヲタクとして回数を重ねることって、とても大事だとわたしは思う。全通しているわけではないから、偉そうなことは言えないけれど。あとはもう売り上げ貢献です。わたしが買ったCDを聴いた友だちが、実際にライブや接触に来てくれたりするし。そういうことの積み重ねで、きっと人気って出るのだと思う。

プレやスタフラを出すこと。これに関してはスタフラのみの話になるけど、まず推しに喜んでほしいから。その次は、ハッキリ言うと見栄だ。どの出演者宛の花よりも、大きくて見栄えが良くて綺麗な花を推しに出したい。そしたらそれを見た関係者が、「この人のファンにはこんな花を出す人がいるんだ。次にこの人をオファーしたら集客や利益があるかな?」と思うかもしれない。一縷の希望レベルの話だが、わたしは毎度そう思って花を出している。推しに新しい仕事が来ますように、そんな願いを込めて。(この内容はマジで推しに見られたら死ぬなと思いながら書いてる)

推しの動画を宣伝したり、ツイートに感想や応援のリプライを返すこと。これは在宅でも出来る、一番簡単な応援の仕方だと思う。時間がないとか、お金がないとか、そういうのも関係ないじゃん?これらが出来なければ、きっと何も始まらない。

歴は、それらを積み重ねていくうちに、気づけば経っている時間なんだと思う。推しのいろんな姿や、夢が叶っていく瞬間、応援するにあたって出来ていく悩み。そういうものを蓄積した結晶のようなものなのだろう。こればかりは、何をしても埋められない。ただ好きでいること。簡単なようで一番難しいことだから、誇りになり得るんだと、わたしは思う。


こう考えると、愛ってたくさんの種類がある。ヲタクが一人いれば、そのヲタクなりの愛がある。一方的だとしても、勝手だとしても。誰も誰かのやり方を否定することは出来ないし、同調する必要もない。好きにやろうじゃないか。あなたにしか出来ないやり方が、きっとあるよ。勿論わたしにもね。

ちなみに、わたしにとっての愛とは、推しの未来に繋がること全てだった。お金を使うことであり、同じ時間を過ごすことであり、労力をかけることだった。もしこれから先 考えが変わったら、その時はまたわたしなりにやってみようと思う。誰に叩かれても、嫌われても。


最後に、質問です。

これはいつか聞きたいことだけど。推しへ。
わたしは今あなたに何ができていますか?

これを読んでくれた皆さんへ。
あなたは愛のために、何ができていますか?

あなたのガッツはどこから?わたしは推しから。

独り言

こんばんわ。

今回はスタンスをテーマにブログを書こうと思う。そして、まず、言っとく。推すスタンスは、各々勝手にしてクレメンス!まじでわたしにはカンケーねえから! ではスタート。


25日、推しのリリイベの後に友だち達と、その中のひとりのパパとの5人で、塚田に行った。乃木坂ファンのパパは、わたしのメンがヘラりながらも割り切った性格に何故か食いつき、たくさん質問をしてきた。その中でわたしが一番刺さったのが、

「あやかは、いつまでこの調子で応援できる?」

というものだった。正直な話、答えに困った。あの時、パパの言った「この調子」というのは、推しに対するお金のかけ方であり、時間の使い方であり、体力であり、精神力であり、熱量だった。


例え話をしよう。鍋に水が入っていて、温めているとする。沸騰しすぎると、お湯は溢れて、零れる。火が消えてしまうと、お湯は水となり、冷めてしまう。ずっと煮続けると、お湯はいつしか、空気になってしまう。鍋を分けると、お湯の分量は偏ってしまう。

この中での鍋はキャパシティだ。お湯は推しへの想いで、火力は熱量だ。想いは熱すぎると、沸き立ちすぎて、保ち続けられない。熱量が伴わなくなると、想いはいつしか、冷めてしまう。ずっと同じ調子でい続けると、想いは気づけば、霧散してしまう。キャパシティが足りなくて想いを分けると、比重はいつしか偏ってしまう。

ガッツだって、リアコだって、他界だって、推し変だって、二推しだって、何かしらの理由があるはずなのだ。いつの間にか推しにそれ以上の感情を持っていることも、もう限界が近いことも、もう想いが他に向かっていることも、みんな気づかないようにしているだけで。


話を戻そう。
わたしは少し考えてから、パパに向かって答えた。

「あときっと、もって2年。ですね」

2年。既に経った時間と合わせたら、3年。長いようで、短い時間だ。きっとわたしのような1人のヲタクのことなんか、忘れてしまう長さだ。そして、わたしの周りのガッツたちの熱量が、消えていった長さだ。


これはわたしの勝手な自論だが、ガッツの賞味期限って、きっとだいたい3年なのだ。わたしは今ガムシャラに、前も後ろも右も左もわからない振りをして、ひたすらに走り続けているけど、いつかその日は来るのだ。信じたくないし、悲しいけど。

傍から見たら、頭がおかしいくらいのガッツだって、やっぱり人間だから。ある日突然、燃え尽きてしまったりもするのだ。わたしの周りが、そうだったように。


それでも推しが好きだから。わたしはその日まで後悔しないように、ガッツでいたいと思う。図太く現場にい続けようと思う。そしてその日が来たら、推しにもヲタクにも何も言わず、本当の意味で消えたいと思う。ずっと好きなんて、心の中だけじゃ、意味はないから。わたしの替えなんて、幾らでもいるから。


いつか君が知らずに幸せな灰になった後で、わたしはやっとふつーのファンになるのだろう。そしてその時は心から、「好きだった」と、そう言えますように。

例えば、今わたしの道標が君だとして。

独り言

こんばんわ。

東京から帰ってきた。今回の遠征は、私史上最高にハードだった。生まれて初めての前日告知、まーじでびっくりした。寿命縮まったよ!

AJ2017の告知を、前回のブログを書いた数時間後に知ったわたしは、「あー、こんなにタイムリーに来ちゃったか」と思った。どうしょうもない気持ちを抱えながら、下北沢で一人泣いた。これが限界なんだと、そう思ってしまった自分が確かにいた。死ぬほど悔しかった。


わたしのこの熱量は、もしかしたら意地なのかもしれない。義務感もあるのかもしれない。そんなわたしを、推しも気づいているのかもしれない。でもそれだけで、海は渡れない。CDは積めない。14時間もバスに乗れない。意地や義務感だけで、わたしはここまでガムシャラになれる人間じゃない。本当に。

わたしにとって、推しは道標なのだ。わたしの生きる、たった一つの光であり、源であり、救いなのだ。今まで誰でも何でも、埋められなかったたくさんの穴を、生まれて初めて埋めてくれたのが、今の推しなのだ。


「君がいないと生きていけない」なんて、チープな歌詞がよくある。そんな歌を聴くたび、んな訳ねーよと思う。でもきっと今のわたしは、それなのだ。弱くて、脆くて、か細い線の上をフラフラになりながら歩いてるわたしは、きっと今推しがいなくなってしまったら、生きていけない。

依存だろうと、いい年してみっともないと、人間的にどーなのかと、そう思う人もいるかもしれない。それでもわたしが今、社会に出てふつーに生きていけるのも、朝起きて昼仕事して夜眠れているのも、少しの幸せを噛み締めていられるのも、全部全部、推しのお陰なのだ。


新宿ミロードのスタバでそんなことを考えながら、わたしは決めた。AJ2017に行こう、と。そのまま勢いでバスをキャンセルして、スケジュールを調整した。たった30分、一角の小さいブース、主役ではなくてゲスト。それでも構わなかった。ただただ推しに会いたかった。


その後、暗い気持ちのまま、推しのリリイベに行った。会場に入って推しの声が聞こえても、顔が上げられなかった。推しになんて言えばいいのか、わたしはちゃんと笑えるのか、まずこんな気持ちのまま来てよかったのか、わたしには分からなかった。

それでも顔を上げたら、いつも通りの笑顔の推しがいた。今日会えなかったら、きっとこんな嬉しいこともなかっただろうなと思いながら、一番後ろの席でひたすらに泣いた。こんなに泣いたのは夏ぶりだった。


順番が来て、推しの前に立った。わたしは聞いた。「明日の告知、出るんでしょ?」と。推しは少し気まずそうな顔をしながら、「あー、あれね、うん」とだけ言った。

泣きながら、「こんな告知が続いたら、わたしはついていけなくなるんじゃないかと思った」と、小さい声でわたしは零した。推しの顔は見れなかった。「それでもついていく」と、わたしは伝えた。それは、確かな決意だった。ちょっとびっくりされた。推しのそんな顔も、わたしは好きだった。


きっと今、わたしの推しはたくさんの落とし穴や、迷い道や、底なし沼のある道を、ただひたすらに必死に走っている。推しだって迷っているのだ。きっとわたしの何十倍何百倍も、推しはひとりで悩んでいるのだ。道標だって、見失うことくらいあるはずなのだ。

そんな推しに、今わたしができることってなんなんだろう。きっとお別れするその日まで、この問いかけは続くのだろう。でも、それでいいと、わたしは思う。


ずっと推しを、好きでいたいと思う。

いつか君が歌い手じゃなくなる日が来ても。

独り言

こんばんわ。

今、わたしは推しのキャスを聞きながらこれを書いている。わたしのTwitterのアカウントを知っている人からしたら、今のわたしのメンタルヘルスは尋常じゃないと思っているだろう。から、クソみたいな駄文になるだろう。でもこれは一ヲタクのただの独り言だから、掃き溜めだから、どうか許してほしい。


推しが11月からまともにライブに出ていない。もうかれこれ4ヶ月の間、わたしはまともに歌を聴けていない。その間にわたしはひとりで考えていた。


「推しは、一体この先何になりたいんだろう」


声優かもしれない。声の活動に対しても精力的に取り組んでいるし、定期的にする声劇の時もとても楽しそうにしている。歌ってみたで1人8役なんかをやる理由とも繋がる。わたしは推しの声がすごく好きだから、その声がもっと放送されるのを聞いてみたい、と思う。

舞台役者かもしれない。わたしは推しの出た舞台は全通ではないけれど、いつも半分は入っている。千秋楽はいつも涙涙の大合唱状態になる(わたしだけ?) 生き生きしてる推しを生で見れるのはとても嬉しいし、演じることはきっと推しに向いている、と思う。

ふつーの歌手になるのかもしれない。ネット出身の歌手、みたいな。最近この手のパターンは歌い手に増えていってる気がする。最近だと、本名に改名した彼とか。名前がローマ字表記になった彼女とか。でもわたしの推しは両声類だとか、ビジュアルが一見♂だとか、そういう観点からふつーな方向性は難しいんだろうなー。一般ウケしなさそうじゃない?


わたしはこの中なら、推しは声の仕事をする人になりたいのかな、と思う。前に、本人とではないが、そういう話をしたこともある。その人の話を聞いて、ちょっと納得してしまった自分がいた。


冒頭に書いた通り、今のわたしのメンタルヘルスは尋常ではない。なのでこれを泣きながら書いている。DAYBREAK FRONTLINEを聴きながら。


推しが、この前某イベントにMCとして出演した。当たり前だけど、歌わないし演じない。多分、その日のお客さんに推しのファンは少なかった。いつもだったらかなりの集客力を誇る推しも、その日はふつーの出演者だった。実況者に囲まれたふつーの歌い手だった。

推しが歌うから、ライブに行く。演じてるから、舞台に行く。でもそれらをしないイベントばかりが続いた時、今まで通りのスタンスとモチベーションで応援し続けられるファンは、どのくらいいるのだろうか。今みたいに手の届く距離で話をしたり、目が合う位置で歌を聴けたりすることがなくなったとして、どのくらいの人数が今まで通りの熱量でがんばれるのだろうか。そんなことを頭の片隅で考えながら、わたしは進行していくイベントを見ていた。


ウダウダ悩んでいても、それでも推しは進んでゆく。立ち止まったファンは置いて行かれる。そういう仕事なのだから、仕方がない。人気商売は、立ち止まったらそこで終わりなのだ。

この前、推しはわたしに、「ちゃんと考えてるから、頑張るから」と言った。その言葉を聞いた時、わたしはまだがんばらなければ、まだ支えなければ、と強く思った。推しが三十路になっても、四十路になっても、この世界で生きていけるように。新参のくせに、そう思ったのだ。

この先誰に出会っても、何を知っても、もう推し以外を今のようなパワーと、熱量で応援することは、きっとわたしには出来ない。どんなに好きになったとしても。だからこれが、本当に最初で、最後なのだ。


いつか君が歌い手じゃなくなる日が来ても、きっとわたしはあの日貰った言葉のとおり「短いようで長かったね」なんて笑いながら、また当たり前のように夜行バスに乗るんだろう。


そしてまた今日も、推しに会いに行くのだ。